多くのことを中途半端に知るよりは何も知らないほうがいい。

双子育児。世相。飯。野球。おじさん。

仲間!絆!愛!平和!…大声で叫ばれる正論が僕らを生きづらくしているなら、それは命の価値の高騰への恐怖なのではないか?

あらゆる正義っぽい主張のたぐいが行き着く先…それは「命大事」。

 

デカイ声で主張を叫ぶ人たちに「その主張をどうしてしてるの?」って疑問をぶつければ多分3回目ぐらいで「命大事だからだ!」に行きつくと思います。…その声が大きくなればなるほど、僕は生きづらさを感じる…。なんでなんだろう?


「命大事!」…当たり前だし、僕だって賛成だ。命は大事に決まっている。大賛成。なのにどうしてその声が大きく響くたび、僕は生きづらく感じてしまうんだろう…。

 

命の価値がどんどん高騰してる感覚に僕は恐怖しているんなじゃいか?最近、そんな風に考えるようになりました。

 

あの…生きるって…面倒くさくないですか?

 

いや、死にたいわけじゃないですよ。楽しいこともいっぱいあるし、美味しいものもいっぱいあるし、大事な人もいる。僕が死ぬことで悲しんでくれる人もいる…と思いたい。だから全然死にたくない。

 

でも、ふとした瞬間に「生きるのって…面倒だな」と思うことないですか?少なくとも僕にはある。

 

死ぬのは怖いけど、永遠に生きろ!と言われるのも同じぐらいに怖い。永遠にこの面倒なことに付き合うのか…それは嫌だな…そんな感じ。卒業の日があるから、今日もちゃんと学校に通える…そんな感じ。

 

いつかは死ぬ…このいつかくるタイムリミットに勇気づけられて、面倒くさい生きるという作業を今日も続けている…そんな気持ちになることがあります。

 

「命大事!」の声がどんどん高まって、命の価値が青天井に高騰して、いつの日か死ぬことが許されない感じになっちゃうのが、なんだか怖いんです。


僕もあなたもいつか死ぬ…絶対に死ぬ。それを時々想像することは、僕にとってはちょっとした救い、お守りのようなものになっているのかも知れません。


「命大事!」の声が大きくなって、僕のこのお守りが、持ってるだけで罰せられる違法なものになっていく感じ…それに恐怖しているような気がします。

 

でも、命ってやっぱり大事なんです。心からそう思うんです。このジレンマというか、矛盾に、今日も僕は生きづらさを感じています。
そして「面倒くさいな…」と言いながら今日も生きているんです。